手をあげて走る

たまに更新される日記です

ムクドリとシャチ

2020.02.27~03.07

 

ご飯を食べているとき、姉が急に「ムクドリとシャチ」について訥々と話しだした。姉は昔から動物が好きで、動物の生態についてたまに教えてくれることがあった。姉の話によれば、つがいをつくることができなかったムクドリの成鳥は他のつがいの子育てを手伝うそうだ。次の繁殖期になるまで、ヘルパーとして雛に餌を与えたり諸々の手伝いをして過ごす。ムクドリの他にも、そのような習性を持つ生き物がいるらしい。またシャチは、「おばあちゃんシャチ」の存在が群れの中でとても重要なのだそうだ。『風の谷のナウシカ』の大ババ様のようなものだ。豊富な知恵と知識を持ち、生き抜くための大切なことを教えてくれる。おばあちゃんシャチが亡くなると、幼いシャチの死亡率も急激に上がってしまうらしい。

「思いやりが大切です、ってよくいうでしょ。あれは、道徳とか礼儀とかじゃなくて、生き抜くための知恵として自然界にずっとあったものだと思うんだよね。自分たちの種を残していくために、必要だから継承されてきたものなんだと思う、うまく言えないけど」

そんなようなことを姉は目を合わさずに言った。私は、姉がその話を「いい話」をしたくて伝えたものではないことは分かった。「だから人にやさしくしなさいね」と言いたかったのでないと思う。だとしたら、姉は何を伝えたかったのだろう。

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(写真は先月末の月。だれかこっち見てると思ったら月だった。)

 

最近、ある大人のメールの言葉にものすごく傷ついてしまった。私がネガティブだからだろうかと思い、姉にそのメールを見せると、ものすごく怒っていた。姉は昔から怒りのパワーが大きい。台風のように怒る。それがたまにキズだが、私はすごく気が楽になった。楽になったと同時に、ますます悲しくなった。どう見たってこのメールの文章は私を傷つけようとしてつくられたものだ。どうして、そんなことができるのだろう。

寝ようとしても寝れず、涙が落ちてばかみたいだと思った。たった一言に傷ついて、眠れなくて、枕を濡らしている。ばかみたいだ。大人なのに。耳に涙が入って、「かゆっ」ってなったことがある人はね、布団の中で泣いたことがある人なんだよ。

 

ぼーっとしながら電車に揺られていると、急にある言葉を思い出した。

後悔なんてしないっっ しちゃダメだっ

だって 私がした事は ぜったい まちがってなんか ない!!

3月のライオン』で、クラス内のいじめをなんとかしようと足掻いたひなちゃん自身がいじめのターゲットとなってしまったとき、泣きながら叫んだセリフだ。本当に、なんのきっかけもなく思い出した。どうしてそんな言い方するんだろう、私のなにが悪かったんだろう、と自分から自分への問いで追い込まれていた私の頭に、風を通してくれた。

 

あのメールの文章にどんな背景があったであろうと、私は間違ったことはしていない。それならもうそれでよいではないか。

 

ある知り合いの方から、

「読んだり観たりしたものが、この先辛いことがあったときにどこかで支えになってくれると思います。」

と言っていただいたことも思い出した。

私は今まで、中高生のときに読んだり観たりしたものに助けられたことは度々あった。けれど、4年間もあった大学生の期間に読んだり観たりしたものに救われることはあまりなかった。だからとても嬉しかった。大学2年生のときに読んだ『3月のライオン』に風穴を開けてもらったこと。とても嬉しかった。

 

その日から、最寄りのTSUTAYAに通うようになった。漫画を借りるためだ。一番の目的は『3月のライオン』を借りて読みなおすため。TSUTAYAのコミックコーナーは最高だ。なんなんだあの空間は。あの空間にいる人はなにも言わない。なにも言わないのに、同士よ、みたいな空気がある。最高だ。

 

今日にいたるまで、『3月のライオン』も『ハイキュー‼』も『違国日記』も『夢中さ、きみに。』も読んだ。

 

3月のライオン』では、

人生は計り知れない 『一寸先は闇』って言葉だけがメジャーだけど

その逆もまた十分起こりうるのだ

「3分先は光」みたいに

 という言葉に目が止まった。

 

『ハイキュー‼』は最終巻を読み終えた余韻にまだ浸っている。明日もう一度最終巻を読み直す。まだ言葉にできない。したくない。

 

『夢中さ、きみに。』は、前から名前だけ知っていた。[書く派]という話が個人的にはいちばん好きだ。ストーリーもそうだが、小松くんがこれまた良い。先輩の教室に入っていくときや絵を描くときは少し怖い顔をしているのに、林くんと話すときや絵を描き上げたときはものすごくいい表情をしている。

 

『違国日記』では、

「だからってこんなことで傷つく方がおかしくない?」

「わ、わたしが何に傷つくかはわたしが決めることだ。あなたが断ずることじゃない!」

 というシーンが印象に残った。

その通りだが、その通りだから難しい。人はちがうのだもの。ちがうのだ。分かっている。分かっているが暴れたくなる。どうしてこんなにもちがうのだ。分かっている。ちがうから楽しいこともわかっている。でも、どうしてこんなにもちがうのだ。これじゃあひとりぼっちだ。人はみな一人だ。

 

姉の「ムクドリとシャチ」の話も、メールの文章も、『3月のライオン』も、『違国日記』も、なんだか根本は同じことを指しているような気がする。この一週間で私が触れてきたものは、なんだか共通しているような気がする。それを「やさしさ」とか「愛」とかで表現したくない。最近はうんざりなのだ。「やさしさ」も「愛」も。大切なことだけど。やさしいことは何も悪くない。やさしい人は好きだ。でも、やさしいことがすべてではないはずだ。そんなこと言って、やさしくないことで傷つくこともある。わがままなのだろうか、ひねくれているのだろうか。表面だけを掬ったようなやさしさが、なにになるのだろうか。そういう安価なやさしさに包まれて、人は弱くなるのだろうか。わからない。私はやさしくないからわからない。でも、もし生涯独り身だったら、姉弟の子育てを手伝ったり、歳を取ってから「変なおばあちゃん」として変だけど面白い教訓を伝えたりしたい。ムクドリとシャチになりたい。私もやさしくなりたいんだろうか。自分をやさしいと思ってしまうと、傷つけたときに傷つけられたと錯覚してしまう気がする。そんなことを思うのは間違っているのだろうか。

 

もう一時になるから寝なければ。

 

昨日、ある人から「いつかお伝えしたいと思っていたんですけど、」という前置きのもと、とても嬉しい話を聞いた。「いつか伝えたいと思っていること」を、伝えることができる人は少ないと思う。すごいな、私もそうなりたいなと思った。

 

もしかしたら、

私もそうなりたいな、と思うことが、「やさしさ」や「愛」のはじまりなのかもしれない。

 

そんなの分からないけど、人はひとりぼっちだからそれを考えないといけない。それだけは分かる。