手をあげて走る

たまに更新される日記です

吠えられるんなら、吠えてたと思う

2021.01.27~2021.02.05

 

いつのまにか、前回のブログからものすごく時間が空いてしまった。

 

1月も終わる。リーガルリリーのライブを聞きに行って1年も経ったのか。あの頃、私は大学生でもなくて、社会人でもなくて、バイトも見つかっていなかった。折れた心を取り戻すために鹿児島に行って、海を見続ける毎日から東京に帰ってきてすぐのいつかだったと思う。姉が誘ってくれたリーガルリリーのライブで、『1997』という新曲を彼女たちは奏でてくれた。

私は私の実験台 唯一愛した人

一番の歌詞では、「唯一許された人」と歌っていたのに、 二番では「唯一愛した人」とはっきり言った。そのときのこと、時間が止まっていたように思う。

なお、私は胃が弱いので、ライブ前に食べたハンバーガーによる胃への攻撃にやられ、ライブ中は始終胃の痛みと戦っていた。ステージの上の彼女たちとはちがう種類の汗をかきながら、血走った目でステージを見つめていた。極限状態だったからだろうか、とにかく、そのときは時間が止まっていたように思うのだ。

 

それから書店でのアルバイトが始まって、髪をものすごく短く切った。ジーン・セバーグみたいで綺麗ね、と笑ってくれたワンピースのお店のお姉さん、元気にしているだろうか。くしゃっとした顔で笑う人が好きだ。犬が首をかしげるのと同じくらい好きだ。

 

なぜ振り返る話ばかりかというと、大学卒業が近づいてきたからである。

3月16日。卒業まであと約一か月。少し長く大学生をさせてもらっていたからか、もう先延ばしにできないのか、という気持ちだ。感慨深く学生生活なんかを思い出して、コンビニに向かう夜道で少し泣きそうになる。セブンイレブンのオレンジと緑と赤の光のことを学生として見ることはなくなる。さみしいかと言われれば、日々は続いていくものなのでそんなにさみしくはない。私は、私の大学生活を、十分納得がいくものとして終えることができる。しあわせなことだと思う。人に迷惑もかけたし、傷つけることもあったと思う。だけど、私は私のまま、良いことをしたときも悪いことをしたときも、変わらずにここまでくることができた。それで十分だ。

 

また長くなる。大学の振り返りは、3月以降に改めてやろうと思う。

 

1月27日。できあがった卒論を抱えて、久しぶりに大学に行った。私は上京しているが通っている大学は地方にあるので、大学に行くのも一苦労だ。小さい旅行ともいえる。コロナ禍で移動は自粛しているが、これだけはやむなく県をまたいで移動した(誰も見ていないようなブログでも一応こんな断りを言わないとと思うのは変かもしれない)。

 

研究室に卒論を提出しに行く前に一件人と会う約束があったので、待ち合わせをした。自転車を悠々と漕いで現れた彼女は同じ大学の後輩で、初対面であった。会った瞬間、彼女は「会えて嬉しいです。これお花です」と言い、小さな花束を渡してくれた。ももいろのチューリップとスイートピー

f:id:kitanoippiki:20210206011514j:image

よく笑い、ポップカルチャーに対してものすごく大きな愛を持つ彼女は、最近はラジオ局でアルバイトを始めた、と照れたように話してくれた。そのときの彼女の笑顔に目を奪われた。人は、自分の好きなものと自分との距離感について人に開示するとき、こんなにも魅力的なんだ。そのときの彼女を思い出すと、やっぱり時間が止まっていた気がする。

彼女には、佐藤多佳子『明るい夜に出かけて』を贈った。まだ読んだことはないと言ってページをパラパラとめくっていた。感想を聞くのがとても楽しみだ。

 

その後、研究室に行くも教授とは会えず、卒論だけ提出して大学を後にした。今度来るときは卒業式か。また感慨深くなりそうだから、すぐに帰った。構内を歩く大学生たちは、きらきらしていた。でも私は知っている。別にきらきらなんかしてない。苦しいししんどいことばかりだ。泣きたいけど泣けない夜のほうが多い。泣きたいのかもわからない時間のほうが多い。それが大学生だった。

 

教授と会えなかったのは、身内に不幸があったからとのことだと後日連絡がきた。

メールでやりとりをしながら、私はこの人と出会えていなかったらどうなっていたのかなあと思った。自分の正義をちゃんと抱きしめているほうが良い。素敵だと思うことは素敵だと言う。好きなものについては胸を張る。人生いきなり。いろんなことを教えてもらったが、先生はいつも適当で、よく笑う人だった。「100年生きるのよ。周りを見ていないで、自分の好きなことをちゃんと見つめなさい」。大学のそういうところが良かった。いいなあ、と思える人に出会えたこと。

「毎日泣いていて、こんな気分になったのは久しぶりで大変よ」という文章に続いて、

「たのしいことと同じくらいに人生ではかなしいことも訪れます。愛が深いほどかなしみも深いです」

とメールには書いてあった。愛する人といろんな理由で別れたり、恋人や家族でなくても、支えだった人や大切な人と別々の道をいくときが必ずくる。生と死という別々の道の場合もあるし、同じ生でも住む社会を分かつ場合もある。

そのときのかなしみは、胸を切り裂くようなかなしみは、愛が深かったから故のことなんだろうと思う。相手が同じようなかなしみを抱いているかは知らないが、相手に対する自分の愛がどれほど深いものだったのか、それを自分で体感できる唯一の方法になり得るのだと。だから、別れとは人生につきものなのだ。私は、いつか息ができなくなるほどかなしい思いをするかもしれない。だけどその一方で、時間が止まったかのように思えるほど美しくて大切な瞬間を経験したりもする。安直に言えば、それが生きるということなのだろうか。わからない。わからないけど、大学を卒業してまたちがうところで生きていく。一生わからないだろう。わかるために生きるのもちがうと思う。

こんなふうに、ぐるぐる考えはじめると止まらなくなるのが最近ずっと続いていていやになる。人間にも吠える習慣があればよかったのに、吠えられるんなら、こういうとき吠えてたと思う、どっかの空に向かって。

 

そういえば、ジャック・ロンドンの小説を初めて読んだのだが、そのなかにあった文章が記憶に残っている。

『マーティン・イーデン』という、ジャック・ロンドンの自伝的小説と言われている本だ。

「これが、人生というものです」と彼は言った。「人生というものは、いつも美しいものとは限りません。けれども、たぶん僕が変わっているからでしょうか。僕には人生になにか美しいものが見出せるのです。人生にあるからこそ、美は10倍もその美しさを増すものであるというふうに、僕には思えるのです」

 

チューリップは、今日も茎の方向を変えていく。スイートピーは、じっと睫毛を伏せているかのようだ。