手をあげて走る

たまに更新される日記です

「それだけ」のことたち

2021.02.18~21

明日、朝マックに行こう、朝マックのホットケーキを食べようと思いながら寝た。私は朝マックのホットケーキが大好きだ。あのメープルシロップと三枚重ねのホットケーキを想像していたらすぐ眠りに落ちた。起きて朝マックに行く準備をしていると、急ぎの仕事が入った。仕事が終わって時計を見たら10時15分だった。朝マックは10時30分までである。そういうものだ。うきうきした気持ちをそのまま持ち続けることは簡単ではない。気持ちなんて気分屋だから、急にしおれてしまうこともあるし、何かしらによって気持ちを無理やり取り上げられてしまうこともある。わかっている。

けど今日の私は一味ちがうぜ!と運動靴を履いて走り出した。自宅から最寄りのマックまでは、歩いて20分ほど。私は走ると決めたのだ。朝マックのホットケーキを食べたいからだ。10分ほど走り、しんどくなり始めたとき、後ろから「はしれ!はしれ!」と聞こえてきた。そして隣を自転車が通り過ぎた。子ども用シートに座った子どもが、めちゃくちゃ元気に歌っている。走れ、走れとそれだけの言葉を繰り返して歌っている。私に向けてなのか、息を荒げながらペダルを漕ぐ後ろの母親に向けてなのか。ランニング以外の目的で舗装された道を必死に走っているときに、「はしれ!」と言われることなんてあるのか。夢なのかなと思った。朝マックのホットケーキが食べた過ぎて、私は夢を見ているのかなと思った。マックに着くと、時計は10時32分を示していた。店の外で待っている柴犬が、ベンチの上に座ってこちらを見ていた。f:id:kitanoippiki:20210221011718j:image

 

照り焼きチキンバーガーのセットを頼んだが、走った直後なので食欲が失せてしまっていて、ものすごく時間をかけて食べた。コース料理くらい時間をかけた。

こんなもんだ。だいたいの事の結末はこんなもんだ。家に帰るとき、雲があまりにもくもくしていて驚いた。もくもくしてる雲久しぶりに見たなあと思い写真を撮った。f:id:kitanoippiki:20210221011824j:image家に着き、走った汗を流そうとシャワーを浴びた。電気をつけずとも明るい時間帯のお風呂場が好きだ。シャワーを止めて目を開けると、窓の向こうから照らす日の光のなかで湯気が揺れていて、とても綺麗だった。いい時間を過ごせて良かったと思った。こんなもんだ。だからやめられないのだ。なにとは言わないが。

 

最近は、映画『戦場のピアニスト(The Pianist)』とドラマ『最高の離婚』を観た。『戦場のピアニスト(The Pianist)』は、観ておかねばと思いながらもずっと観れずにいた作品のひとつだった。身を隠して生活するようになったシュピルマンが、隣の部屋から聞こえてくるピアノの音色に耳をすますシーンが一番良かった。そうだよな、と思った。だって彼はピアノが好きなんだ。ピアノが好きで、ピアノを弾いていて、それだけなのだ。「それだけ」のことがそこらじゅうにあって、それぞれの人がその「それだけ」を踏みつぶすことなく交わしていくのが、日常だと思う。しあわせな日常だと思う。戦争という題材で、絶望と希望を二項対立にして衝撃を生むのではなく、「そこでそれが起こっている」ということを淡々と描いているのが印象的な映画だった。つまり、今述べたことでいうならば、それもまた日常なのだ。恐ろしいことだ。

 

最高の離婚』もまた、おすすめしていただいて観たのだが、とても良かった。今観て良かったと思った。今というのは、コロナ禍というのもあるし、私が23歳だからというのもあるし、春になる前だというのもあるし、まだ見ぬ未来を迎える前という意味でもある。この作品を観た人たちは、一番好きなセリフや場面がそれぞれあるのだろうと思った。そしてそれは分散されていて、皆が皆惹きつけられた部分は違うだろう。そういう作品が好きだ。私が一番好きなのは、最終話、テーブルを囲んで二人が座っているとき、結夏がティッシュ箱に手を伸ばして、それを光生が取ってあげるシーンだ。記憶に残らなかった人もいたと思うし、そのシーンがなにかと言われたらうまく答えられないが、私はそのシーンがとても好きだと思った。人と人との関係を、言葉やふれあい以外で見た気がした。

 

最近は、そんな日常を過ごしている。嫌なこともあるし、楽しいこともある。発見もある。忘れることもある。

昨日の夜の話を最後にしておく。これは、いつか私が自分で自分のブログを見返したときに、読んで欲しいことだ。

たまに、思い出して眠れないときがある。思い出すその内容というのは、時によって異なる。小さいときのこと、中学生のときのこと、高校生のときのこと、大学生のときのこと。昨日は、大学生のときのことだった。

大学1年生の頃、小学校に行き、授業のスピードについていくのが難しい児童のそばについて勉強のサポートをする活動に参加していた。その活動は、10年以上続けられている活動で、いわゆる大学生のボランティア団体の活動というものの類だった。なぜ参加しようと思ったのかは覚えていない。

毎週月曜の好きな時間帯に決められた小学校の決められた教室に行き、学校側から指定された児童のそばについて授業を一緒に受ける。毎週月曜の2時間目、3時間目あたりに行くと、国語や算数の時間であることが多かった。

その子は、よくしゃべり、よく笑う子だった。1年生だった。国語の時間に皆で声を揃えて音読することになったとき、ふとその子の口元を見たら、適当に口を動かしているだけだった。声を出していなかった。でも、最初の2文くらいまでは大きな声で読んでいたはず。おそらく、最初の2文は何度も読んで暗記していたのだ。私は何も言えなかった。何も言えなかったけど、その子は楽しそうだった。皆と同じスピードって、結構大変だ。そういうの、なんてことないよと思った。だから私も楽しそうにした。授業が終わった後、音読の練習を二人でした。

あの後、活動をいつまで続けたのか覚えていない。最後に学校を訪問したのも覚えていないし、その子が二年生に上がるまで見届けた気がしない。適当だったのだろうか。私はあの時、あの子に向かって適当に笑ったのだろうか。

そういう記憶の掘り起こしは連鎖する。ずるずると記憶を思い起こして憂鬱な気持ちになっていると、気づけば時計は深夜2時半を指していた。私は眠りたいのに。こういう夜は長くなるぞ、と思いながらなんとなくTwitterを開いたら、岡野大嗣さんの短歌があった。

犬やなくてインターネットで買うときのポチやよ わかっとるよありがとう

大丈夫になる瞬間というのは、ある。それは客観的に自分を見ているから気づくのではなく、自分の思考が向きを変えるのがわかってしまうからだ。おばあちゃんとおじいちゃんがいた。向かいあってはいなくて、でも会話をしている。犬小屋が庭にある。昔そこには犬がいた。かわいい犬がいた。「うちのがいちばんお利口さんやわ、アホやけど」と矛盾したことを言う二人がいた。私の記憶ではない。けれど、私の記憶だ。私だけの記憶だ。想像ではないと思う。なぜなら過去にあったことを思い返しているからだ。けれど、本当に過去にあったできごと?と聞かれたら口ごもってしまう。どっちでもいい。ほんとうかうそかも分からない記憶が、私が眠るための思考の行方となってくれた。泣きそうになった。眠気のほうが強かったから泣かなかった。岡野さんの短歌に助けられるのは初めてではないけれど、眠れないピンチを助けられるのは初めてだった。私もそういう小説を書きたい。ハッピーエンドとかバッドエンドとか、読んでいてワクワクするかしないかとか、卑劣でないかどうかとか、そういうのはしらない。関係ないのだ。

その後すぐ寝た。すぐ寝られるのだ。「それだけ」のことだから。

 

最高の離婚の、一番好きなセリフはこれだ。

缶詰。缶詰が発明されたのは、1810年なんですってよ。で、缶切りが発明されたのが、1858年。おかしいでしょ?でも、そういうこともあるのよ。大事なものが、あとから遅れてくることもあるのよ。愛情だって、生活だって。

遅れてくればいい。私はあのとき、適当に笑ってなんかいないのだから。