手をあげて走る

たまに更新される日記です

大大大大大大大大大大大好きさ。ありがとうございます。

暗闇の中で「目に塩が〜」がでっかい音で聞こえてきた瞬間、どばばべべべと涙が出てきてハンカチーフを探した。

 

就活がうまくいかず、嫌な想像ばかり膨らんで眠れない中チャンネル放送を再生したあの夜を思い出す。靴擦れした足の小指をもう片方の足の指で撫でながら、shu3のゲラに引っ張られて一人くすくす笑ったあの夜。小さいときの悲しい記憶を思い出して眠れない中再生した夜も思い出す。幼い頃の自分を守れなかったことが悔しくて泣きながらも、すぎるの音割れで大笑いしたあの夜。そのまま寝落ちして、朝になれば何事もなかったようにまた生きた。

 

私はこのジングルから始まるナポリの男たちの放送にいったい何度力を貸してもらってきたんだろう、そしてナポリの男たちはここにいる何人の人たちの夜を救ってきたのだろう、と思ったら泣けてきたのだ。たくさんの、本当にたくさんの私たちの小さな夜を救ってきたであろう4人は、毎週、知恵を絞り、会議を重ね、時に体を張り、時に蹴落とし合い、放送を続けてきた。視聴者を楽しませるために、だ。

 

『舞台 ナポリの男たち』も同じだった。

『舞台 ナポリの男たち』は、“視聴者”を楽しませることに本気だった。

『舞台 ナポリの男たち』が、“視聴者”を楽しませることに本気なのが嬉しかった。

 

ナポリの男たちの世界をただ3次元にすること」でも「ナポリの男たちの代わりに舞台に立つことだけ」でもなく、「何をやったら“視聴者”は楽しいと思うか」だけを考えていてくれた。批判を防ぐために、「なんか違う」と言われないために、チャンネル放送にまるまる沿ってつくることだってできたはずだ。ナポリの男たちの声に合わせて、役者さんが身体だけ動かす演出にしたって一つの舞台になったかもしれない。でもそれをしないでくれた。「ナポリの男たちは面白い」を知っている“視聴者”に、もっと「面白い」を届けることに重視してくれた。そのために、こんなに創ってくれて、こんなに準備をしてくれて、こんなに影から支えてくれて、こんなに汗をかいてくれて、こんなに考えてくれた。

 

「いいもの」をつくろうとするとき、張り切ってつくろうとするが故に、「いい」に焦点を当てすぎて独りよがりになってしまうこともある。「理解できない奴はついてこなくていい」と届ける相手を切り捨ててしまうとか。逆に、「いいものをつくる」を達成することだけに注力してしまうが故に、完成させたはいいけど「いい」が迷子になってしまうこともある。そのどちらでもなかったのもまた、「いいもの」の定義が、「“視聴者”を楽しませる」という点にあったからではないかと思う。

 

だから、寂しくならずに観ることができた。放送時は気づかなかったことに気づいた。まだ観続けていたいと思った。

 

ここからは、私が個人的に印象に残っている点について述べていきたい。

 

ナポリの男たちパペットを登場させた点

もし、普段の放送のように画面に1枚スライドを出して、スピーカーからナポ男たちの声が聞こえてくるだけ、という方法をとっていたらどうだっただろう。「今ここに自分たちはいるのに、ナポリの男たちは舞台にはいない」という既成事実に改めて対面し、"視聴者"はすこし寂しさを感じてしまっていたかもしれない。パペットは、場所と時間のギャップを埋め、私たちの心を舞台に繋ぎ止める「繋ぎ手」という役割を担っていたと思う。これもまた、"視聴者"を楽しませる、ということに一貫していたと感じた所以の一つである。

 

●『雄すぎ』のねじねじ

放送時にはなかった前日譚が追加された『雄すぎ』。ねじねじは元々、蘭太郎がお母さんの誕生日に贈り、「丁寧に畳んでしまわれていた」ものだった。それが物語の最後、すぐるがポケットから出した時はボロボロになっている。劇場で観た時は気がつかなかったが、ストリーミング配信で寄りで映し出されたねじねじを見て気がつくことができた。原作でも「すぐるは、ボロボロの布切れを握りしめていた」という表現はあるが、舞台で実際にボロボロになった状態を見たことによって、ここまで原作に忠実にしてくださったというのはもちろん、大切な人に贈ったスカーフは、丁寧に畳まれたままではなく、大切な生き物にボロボロになるまで使ってもらえたんだ、ということを知って胸が熱くなった。

 

●『どす恋!』の3人の台詞

「女の子だからって土俵にも上がれないなんて、絶対に間違ってる!」

「だから私はあの学校の風紀を乱すことは、絶対に許さないわ」

「ところで相撲って、おいしいのかなあ?」

それぞれ原作にもあった台詞だが、舞台を通して、役者さんたちを通して聞くと、この台詞がどれも前向きだということに気づいた。特に「おいしいのかなあ?」なんて、ワクワクしているからこその言葉なのである。単純においしいかどうか気になるというのもあるだろうが、「おいしいのかも=たのしいのかも」と思ったからこその台詞だ。どす恋を観るとなぜかげんきになるなあ、と思っていたが、その靄が晴れた。みんな前向きなのだ。すごい作品だ。

 

●『スナックしゆみ』の花

言わずもがなしゆみさんがすごかった。あ、しゆみさんってただのえっちなお姉さんじゃないんだ、と登場シーンのしゆみさんの眼を見て感じた。分かってるんだ、この人は。全部分かってるからの、えっちさなんだ、と。

 

しゆみさんについてはたくさんの人が触れているのでこのくらいにしておき、今回印象に残った「花」について述べたい。元気なくて枯れそうな花を、「捨てちゃだめ!」と叫んだのぶ子が頭から離れない。美しい花が揃う夜の世界で、枯れそうな花だった自分と重ねただろうその切実な声。池ちゃんの、「花っているかーって、俺っているかーって」という台詞。これらを踏まえての、

 

「必要ないものが、実はすごく大事かもしれなくて」

 

がとても印象に残った。

ゲーム実況とか、YouTubeとか。言ってしまえばそれらがなくても生きていけるのだけど、でも実は、すごく大事なのだ。朝電車に乗りたくなくても、イヤホンを装着して再生ボタンを押せば笑えるし、残業した帰り道も嫌なことを忘れられる。花とそれらは似ている。枯れてしまっても、誰かを笑顔にすることだってある。そう思った。

 

●『ナポンヌのムスカリ』の「お前も、結局はこうして人を斬る…。」という台詞

 

「お前も、結局はこうして人を斬る…。フランス王と同じく、流血の道しか選べぬ悪魔ということか!お前との友情も、ここで終わりだ!」

 

原作では「黙れ!やはりお前も、憎きフランス王と同じ流血の道しか選べる野蛮な男だったというわけか」という台詞だったが、この台詞を放ったハーチェスがどのような思いだったのかを勘違いしていたことに気づいた。ハーチェスは逆上していたのではなく、悲しんでいたのだ。でもその悲しみのやり場はなく、結末も最悪な選択肢しかないなか、覚悟を決めた上での台詞だったのだろう。覚悟は決めたけど、友であるスグールに、そのやり場のない気持ちをぶつけてしまったのだ。二人の関係性が最も表れたシーンは、もしかしたらこの時だったのかもしれない。

 

●涙 塩分 マルゲリータ

いつも放送を観てる時は、「あーもう今週の放送も終わりかー」という気持ちになるあの曲を、大勢の役者さんが声を合わせて歌ってくれている姿に、冒頭の「目に塩が」と同じくらい心に迫るものがあった。

 

「大大大大大大大大大大大好きさ」

 

いい歌詞だ、と改めて思った。

 

「大大大大大大大大大大大好きさ」

 

もう一度書きたくなるくらいいい歌詞だ。

 

すぎるが個人生放送(2021.07.20)で「観るたびに発見がある」と言っていたように、ストリーミングで見返すたび、わちゃわちゃする中でもそれぞれの役者さんの動きや表情に発見があって楽しい。何度もリピートしてしまう。

 

 

なぜこんなにも、「視聴者を楽しませる」ことに一貫した舞台だったのだろうか。「やっぱり、みんなナポ男が好きなんだよね」と言ってしまえばそこまでだ。それはもちろんだけど、もっと別の大きな理由もあると思う。集まった方々が、そういう人たちだったのだと。

『舞台 ナポリの男たち』をつくることに携わってくださった方々が、“視聴者”に想いを馳せ、楽しませようとしてくださる人たちだったのだ。そして、そういう方々を引き寄せたのが、ナポリの男たちなのである。彼らがいつも視聴者に面白いものを届けようとしてくれているからである。

 

“視聴者”を見くびらないでつくってくれて、本当にありがとうございます。

面白かった。嬉しかった。

 

恐悦至極にございます。

 

 

 

千秋楽の日、夕日が綺麗で見惚れた。