手をあげて走る

たまに更新される日記です

「曇りなき眼で物事を見定める」

幼い頃、自分をもののけ姫だと思い込もうとしていた。

 

正確には、自分がもののけ姫ではないことは分かっていたし、けれどその事実が悲しくて、そう思い込むことで自分は周りのようにのうのうと生きているわけではないと線引きをしたかった。

友達と鬼ごっこをしていると、急に立ち止まって山の方を見たりした。「どうしたの?」と訊かれると、「ううん、なんでもない」なんて意味ありげに返して、また走り出した。

今思い返しても、拗らせてるなあ、と思う。

それでも、「本当は山が性に合ってるにんげん」というのを自分に設定することで、この俗世の嫌な感じから距離を置いた人間でありたかった。

あの頃、私にはもののけ姫が羨ましかった。

 

 

就活が落ち着いたら絶対に行こうと思っていたので、二子玉川に『もののけ姫』を観に行った。

映画を観にいくときは、どの映画館にするかいつも悩む。客はどんな層が多いか、人数、映画館を出た後の街並み、帰りの電車に揺られる時間。それらの情報をネットで調べまくり、口コミを漁る。なるべく人は多くないほうがいいけど、観る映画によっては喧騒が多い街並みに揉まれて帰りたくもなるのだ。

 今回二子玉川にしたのは、帰りの電車で考えすぎてしまわないように、近場にしたかったというのと、客層にばらつきがあって欲しかったという思いがあったためだ。

 

前の晩から「明日は『もののけ姫』を観に行こう」と意気込んでいたためか、朝起きてから食欲がなく、麦茶だけ一杯飲んで外に出た。

 

平日の昼間だったのと、コロナの影響で席は間隔を空けて座らないといけなかったため、人数はまばらで、十数人ほどしか入らなかった。

 

アシタカの村は、「大和との戦いに敗れ…」という村人の台詞と、漆器、髪型や服装などから、アイヌの民族ではないかと推測した。イオマンテなどで知られるように、自然との付き合い方を大切にするアイヌの民族。ヒイ様が、タタリガミと化した猪に手を合わせる場面などからは、そうしたアイヌの民族を思わせた。

幼い頃はそんな推測も浮かばなかったし、それが何を意味するのか、現代に何を問うているのかも想像だにしなかった。

その上でアシタカの考え方を追うと、自然と涙が出てきてしまった。馬鹿正直なただの真っ直ぐ野郎だから、彼は人と自然がともに生きることを目指しているのではない。彼は、そういう文化のなかで実際に生きているのだ。廃れつつある貴重な文化の担い手として。だからこそ、彼の意見は少数派のものとして扱われてしまったいるし、ジコ坊なんて最後に「馬鹿には勝てん」とこぼしている。それがとても悲しかった。そして、私はその多数派に属しているという事実が、幼い頃と同じく悔しかった。

 

冒頭での「日本には太古八百万の神々がいた」という台詞。そして最後、サンの「シシ神様はいなくなってしまった」という台詞と、それに対するアシタカの「シシ神は生と死そのものだから、生きている」という台詞。

 

私は幼い頃、『もののけ姫』のこの最後のシーンがとても嫌いだった。無性に悲しかったからだ。サンとアシタカの台詞の違いがなにを意味するのかもわからなかったが、山が、以前の山と何か違うということは分かった。生命に溢れる山なのに、そこからまた始まるはずなのに、以前と違う山を見たくなくて、だからそのシーンが嫌いだった。

 

今回、観た後幼い頃とは違うどんな思いになるのかと期待していたら、やはり最後のシーンは苦手だなと感じた。幼い頃の私が感じたことと変わらなかった。

八百万の神がいた頃、自然に対する畏怖を、かたちをもった神々が体現していたように思う。姿が見えなくても、たしかにいる、ということが、人間にそうした敬いをもたらしていたと。

アシタカの台詞は間違っていないし、シシ神は「役割」として生きているのだろうけど、姿をもった神としてのシシ神がいなくなってしまった以上、サンの言う「シシ神様はもういない」という言葉に頷いてしまう。

 

私は、もののけ姫がやはり羨ましい。神としてのシシ神を求めることが正義だと疑わずに生きていられることが羨ましい。

 

映画館を出た後、頭がふらふらするのでカフェに行こうかと思ったが、たどり着いたのは外にある石でできたオブジェだった。

今、そこに腰を下ろしてこの文章を書いている。

山を懐かしそうに見ることで自分を保っていた私は、まだ健在しているのかもしれない。

そうだとしても、そうでなかったとしても、曇りなき眼で物事を見定めなかればならない。見定めるために生きねばならぬと思う。

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