手をあげて走る

たまに更新される日記です

血管は怒り狂っていて開いても握っても意味がなかった

2020.03.02

 

渋谷駅の広告を写真に撮る人たちは、目をきらきらさせて、その後少し恥ずかしそうにする。なんにも恥ずかしくないよ。その人が好きなバンドも、アニメも、映画も、でかでかと印刷されて、紙の上で自慢げに光っている。

 

そして私は、立ち止まって写真を撮る彼らに決してぶつからないように歩く。

今日は、俯いていてそれができなかった。

 

優しい心を、最近は少しずつ削られてきている。もとい、削っているのかもしれない。

自分の長所は、優しいところだと思っていた。誰かのために一生懸命になれるし、なるべく心地よいと思ってもらえるように頑張るし、なんでもない日にプレゼントを渡したりすることも好きだった。人の喜ぶ顔が好きだった。どんなに犬が好きでも、どんなに猫が愛おしくても、人が喜ぶあの顔を見るとたまらなく大切にしたくなる。

弱い自分も、穿った見方をしてしまう嫌な自分も、真実を探ろうとして先回りしようとする策士的な自分も、押し込めて、一人きりのときにしか蓋を開けないようにしてきた。

 

最近は、優しくしようとすると疲れてしまう。自分に向けてではない舌打ちをする音や、疲れた人の顔、広まる感染症と非難の声が常に巡ってる。オーストラリアの火災の話はどこにいったのだろう。

 

通勤中の電車での読書時間を、今までは至福のときだと思っていた。

 

最近はさ、この物語の世界から離れたくないって思うようになった。

中学生の、柔らかくてときに尖る、甘くて黄色い日々を見守って、合唱コンクールに向けた子どもたちの成長に涙して、愛とお金との狭間で女としての生き方に手を伸ばす女性を、同じ高さで同じ方向を向きながらその背中を追って。む私もここにいたいなあと、首が疲れて顔を上げるたびに思う。

 

優しくできなくなってきてるぞ、これは。どうしたものか。誰かのためのことを考えるのはいいけれど、自分はどこにいくのだろう。就活もしなきゃ。ネットに載ってたお手本ESがすごく嫌だったな。甘いものでも食べようか、あのカレー屋さんにでもいこうか、外は雨だ。

こんな現状だから、バイト先にくるお客さんの数も少なくて、そんな考え事をしながら作業をする。

 

ふと、作業をする私のちょうど真上から、ライトが照らしていることに気づいて嬉しくなる。

嬉しくなって指先を照らそうとすると、手の甲にくっきりと、何本もの血管が盛り上がっているのが見えた。

昔から皮膚が薄くて、運動した後なんかは手の甲にこうして血管が盛り上がってしまうのだ。

 

特に運動したわけではないのに盛り上がった血管。小説の登場人物みたいなことを考えてしまった。私は優しくしたくて今ここにいるけど、ここで生きてるけど、私の手はこんなに怒ってるんだ、と。小説のようだとしても、詩的な表現だとしても、私の手の甲にこんなにも血管が浮かび上がっているのは事実だ。少し不気味だ。そうだよね、と左手で右手の甲を優しく撫でる。

 

来週は、心が前を向いた出来事をここに残せるよう、全てに優しくなれなくても、少しだけ優しく生きたいと思う。

 

ちなみに、最近は

角田光代『紙の月』

津村記久子『これからお祈りに行きます』

中田永一くちびるに歌を

野中柊『ひな菊とペパーミント』(途中)

を読んだ。

『紙の月』は、中学生の頃、書いた小説を見せたときに先生がおすすめしてくれた本だ。どんな理由で、どんな言葉と共におすすめしてくれたのか、今ではもう覚えていない。けれど、嫌味がなかったことは覚えてる。

あらすじだけ読めば、ありそうな話なのだが、心情と行動の連鎖が歯車のようにずっと続いていくところが良かった。心情だけ重くなったり、行動だけ飛躍したりする話もあるなかで、ここまでその連携がとれているのに驚いた。単に心情の重さと行動の重さのバランスがとれている、という意味ではなく、淡々としたなかにある女のプライドや、視点が変わっても存在する人の良さと平凡さがとてもいい味をだしていた。結末に向かって進むことだけを良しとしていない構成に好感を持った。角田さんの本はそこまでたくさん読んだことがなかったから他のものにも手を伸ばそうと思う。

 

『これからお祈りに行きます』は、主人公のサトルの人物像がとにかく愛らしかった。一人称の本を読んでいると、語り手となる主人公をあくまで他人として見て読み進める場合と、寄り添って読み進める場合の2種類があるように思う。これは、断然ぶっちぎりに後者で、しかも読めば読むほど「いいね、サトル!」「そういうとこだぞ!」と野次を入れたくなるほど好きになった。サイガサマを厭うけど、厭い切れているわけではなく、むしろよく見ているのだ。主要キャラはこのサトルのみと言っても過言ではないかもしれない。サトルを引き立たせるために周りがでてきたようにも思う。いい本だった。買ってよかった。

 

中田永一くちびるに歌を

乙一名義といい中田永一名義といい、どうしてこの人はこんなに優しいのだろうか、と作品を読むたびに思う。『ZOO』を初めて読んだときは、カザリとヨーコやセブンスルームに引っ張られたけど、陽だまりの詩やso-forなど涙が出るほど優しい話が一番目立つところにいるわけではなくともきらきらと散りばめられていた。『百瀬、こっちを向いて』で青春のあの愛おしくゆっくりと流れる時間(本人たちにとっては驚くほど早い時間)を、よく噛み締めて過ごす登場人物たちが印象的だったように、今回も一人一人がそのことをよく分かっているように見えた。青春は永遠ではないのだ。

話は言わずもがな良かったけど、なによりも乙一さん(中田さん)の書く男の子はいいなあ!と改めて思った。弱いけど捻くれていないし、力を込めればいつだって強くなれるものを握りしめている。向き合う人に嘘をつかないし、時には逃げたくなるけど、逃げるときは全力だ。私が男の子だったら、金城一紀さんが書くようなオオカミのような男の子か、乙一さんの書くあんまり強くない犬っころのような男の子になりたいといつも思う。

 

『ひな菊とペパーミント』はまだ途中なので次回感想を書きます。